幻影ヲ駆ケル太陽~こぼれ散るは運命の砂~
episodio4 黄昏
遺伝子が利己的である、と提唱したのは、誰だったっけ──。
ふと、太陽ひなたのカルテに目を通しながら、高取は思った。
直系の研究を始めてから半年以上が過ぎ、暦の上では春を迎えていたが、今年はまだ、寒い日が続いている。だが、高取にとっては季節が過ぎ去る感慨などはどうでもよく、ただ、これだけの時間を経ながら、納得のいく研究結果が出ないことに、苛立ちを感じていた。
いや、結果など、出るわけがない。
そもそもこの研究は、上司である白井教授からもたらされたものである。高取がダエモニアの研究で、成果を出せないようにするための嫌がらせだった。
これ以上、彼女達──太陽ひなたと、アメリー・ラムールを研究することに、意義などあるのだろうか? これまで高取が二人に向き合う度に、去来する疑問だ。だが、何か結果を出し、論文にまとめなければ、この研究から離れることはできないだろう。そのためには──高取にとっては本意でなかったが──少なからず、彼女達と向き合う必要があった。
昔から高取は人と向き合うのが苦手だった。身近なところで言えば、自分の両親とも、真の意味で向き合ったことはない。
自分の父母が本当の両親ではないと悟ったのは、七歳の時だった。両親に聞いたわけでも、親戚に聞いたわけでもないが、高取は確信があった。自分は、この親のどちらとも似ていないと。『遺伝子の違和感』。高取は、自分の感覚を、そう名付けていた。
十歳になった頃、父に尋ねるとあっさり養子である事実を認めた。
「一人の人間として、自分の出生のについて、知っておきたい」
真面目な顔でそう言ったのが、功を奏したようだ。神童などと呼ばれる高取を、父は聡い子だと思っていた。血のつながりが無いこともあり、幼くして賢い我が子に尊敬すら覚えていた。だから、高取の言葉が子供らしくない発言であっても──子供らしくない発言であればあるほど、父は喜んだのだ。
高取は、両親の実の子でなかったことのショックより、自分の感覚が当たっていたことに、喜びを覚えていた。遺伝子の違和感は、間違っていなかったのだ、と。
養子である事実を聞いたところで、両親が嫌いなわけでも、感謝していないわけではなかった。彼らは、十分に愛情を注いでくれたし、その愛に対し、自分の役割を演じさえすればいい。何かを買い与えられれば、いつもより少しだけ、大げさに喜んでみる。その程度のことで、両親の愛を得られるのなら、簡単なことだ。
カッコウは、他の鳥の巣に卵を産み、子育てを他の鳥に任せてしまうという。托卵だ。きっと自分の両親は、カッコウだったのだろう。カッコウと違うのは、養父母に子供がいなかったことだ。だがそのお陰で、高取は養父母の子供を排除せずに済んだ。カッコウの雛は、宿主の卵を背中に乗せて巣の外へ放り出す。そうして宿主の雛を全滅させてしまうから。
その点『エレメンタル能力』の使い手達はわかりやすい、と、高取は思わないでもなかった。
自分がどの遺伝子から生まれたのかわからないのとは違い、直系である彼女達の遺伝子は、必ず、前の世代から受け継がれたものである。『エレメンタル・タロット』で能力を引き出しているのだとしても、それは、選ばれた遺伝子にしか使えないものだ。過去から未来へと脈々と続く血の証──。
軽い、ノックの音が響く。今日もこの時間がやってきたのかと思うと、やはり憂鬱だ。
「どうぞ」
高取がため息混じりにそう言うと、いつものようにひなたとアメリーが入ってくる。ふっと漂うネロリの匂いには、もう慣れた。ひなたの方は香水をやめてくれたようだが、アメリーはまったくお構いなしだ。
「じゃ、今日もそこにある問診票を書いて」
パイプイスに座る、ひなたとアメリーに、高取は促す。まだあどけない表情を残す少女達に、高取は時々、本当にこの二人は、自分と二歳しか違わないのだろうか、と疑わしく思えてくる。
直系であるひなたとアメリーを調査するにしたがって、高取は、知らなかった──というより、興味のなかったことを、いくつか知ることができた。一つは、身体的に殆ど年を取らない、ということだった。
おそらく『エレメンタル能力』の一つなのだろう。ひなたも、アメリーも、ぱっと見、二十代とは思えない。もちろん、世の中には若く見える人もたくさんいるが、それはあくまでも外見上の話だ。彼女達の血液を採取し、運動能力、身体機能、基礎代謝などを調べるにつれ、肉体として完成された十八歳から、ほぼ機能の低下が見られないことがわかった。それは、セフィロ・フィオーレに所属するエティアとアリエルにも、同じことが言えた。
直系である彼女達は、その能力が消えるまで──つまり、次の世代に『エレメンタル能力』を引き継ぐまで、若いままで命を保ち続けることになる。
だが、その事実を知ったところで、やはり直系に対しての興味は湧かない。
「書いたら、すぐに出て行ってください」
人間と向き合うのは面倒だ──。
高取は、二人に対し興味がないことを、改めて感じていた。
僕がしなければならないのは、直系の研究ではなく、ダエモニアの研究だ。
「高取さんって、ダエモニア研究の、第一人者なんですよね?」
問診票を書き終えたひなたが、突然、口を開いた。初めての事だ。
「…………」
聞こえないふりをした。だが。
「高取さんって、ダエモニアの、第一人者、なんですよね?」
今度は小さな子供にでも言うように、ひなたは声のトーンを上げてはっきり尋ねてきた。
「……聞こえています」
高取は内心の動揺を抑えるために、あえて見ていた書類に視線を集中させて答えた。
これまでの間、『話しかけるな』と言わんばかりのオーラで、高取はひなたとアメリーを排除してきた。質問の答えは、全て問診票に書いてもらい、終わったらすぐに研究室を出て貰う。週に一度、二十分だけの付き合い。採血が必要の場合は、別の研究員を立ち会わせるなどして、極力会話をしなくて済むように、高取は細心の注意を払ってきた。 今日も同じような空気を作ったはずだ。なのに話かけてくるなんて、この女は空気が読めないのか? それとも、僕の方に、何か相手を油断させるような落ち度があったのだろうか? 自らのミスに、チっ、と、高取は軽く舌打ちをする。
「ひなた、無駄だって~。こーんなコミュニケーション能力の低い男に話しかけたって、意味ないよ~」
アメリーは、高取に聞こえるような声でわざと言った。彼女が自分に対し、明らかにいい感情を持っていないことは、今までまったく会話をしなくてもわかっていた。もちろん、高取にとっては、そのぐらいの関係の方が楽ではあった。
「でも、聞いてみたいんだもん」
一方のひなたが、自分と話したがっていることは、高取も自覚していた。問診票を書いた後で、いつもひなたは、すぐには出て行かない。躊躇い、こちらを窺いながら、ひなたは何かを言おうとする。だが、大抵その前に、高取が追い出すか、高取自身が研究室を出て行くことが多かった。
とにかく、話すのが煩わしかった。話すようなことも、こちらは何もない。
一体、彼女は何を聞きたいと言うのか?
「高取さんは、ダエモニアをどう思いますか?」
何かを期待するような表情で、ひなたは高取に尋ねてくる。
「どう、というと? 言っている意味がわかりませんが」
なるべく会話を続けたくないと思いながら、ある程度こちらで主導権を取りながら話したい、というのが高取の本音である。
「ダエモニアが分裂で増えていることを、高取さんが発見したと聞きました。すごいんですね」
自分を見るひなたの瞳が輝いている。
すごい? 何が? 彼女は、一体自分に何を言おうとしているのか?
「そんなすごい研究をしてるなら……人がダエモニアになるのも、食い止められるのかなって」
そのあどけない、冬の空のように澄み切った表情をするひなたに、高取は唾棄したいほどの強烈な反発と嫌悪感を感じた。
この人は、本当にダエモニアのことを、わかっているのだろうか?
ひなたの発言は、高取にとっては、無知で浅薄で、きれい事をまき散らす愚かな鳥の鳴き声のように聞こえた。ダエモニアは人の心の隙間に入り込む。その遺伝子は、人が心を持ち続ける限り、永遠に存在する。食い止めるということは、ほぼ不可能に近い。
「おめでたいですね」
気がつくと、高取の口からそんな言葉が漏れていた。
「えっ?」
「あ、いえ……人がダエモニアになるメカニズムは知ってるんでしょう? それなのに、食い止めたいと考えているんですか?」
「知ってるからこそ、食い止めたいんです」
ひなたはまっすぐ高取の瞳を見て言った。
「人の心に隙間があるのは、普通のことです。誰もがダエモニアに取り込まれるかもしれない……それを防ぐには、自分の心を強く保つしかないのかもしれないけど……人間、そんなに強くはないから……だから、それなら、根本からダエモニアを……」
「無駄なことですね」
ひなたの言葉を遮るように、高取は言い放った。
「ダエモニアは必要悪だと思っているんですよ、僕は」
「必要……悪……?」
ひなたとアメリーの顔があからさまに曇る。
「人間の長い歴史の中で、どうしてダエモニアが生まれたんだと思いますか? もし、ダエモニアが生まれなかったら? 人に取り憑かず、殺戮を起こすこともなかったら……人間の、個体数のバランスが取れなかったかもしれない。同じですよ、ウイルスや病原菌と。より強い子孫を、遺伝子を残すために、ダエモニアが人間の淘汰を行っているだけです。その仕組みを壊すことは、自然の営みへの冒瀆だと思いませんか?」
「…………」
高取の言葉にひなたとアメリーが押し黙る。
「それに僕は、人間がダエモニアになることに興味はない。ダエモニアが人の心の、何に反応するのか、分裂の際、何を媒体や栄養にしているのかは、調べる必要があるとは思いますが……そこに、陶酔やセンチメンタリズムは一切必要ない。僕の興味は、ダエモニアの遺伝子です。彼らが個体を維持するために、どうやって人間の心と身体を利用するのか。それしか興味がありません」
勝った、と、反射的に高取は思った。
何に対してそう思ったのかは、本人も自覚するのが難しかった。ただ目の前にいるこの二人に、思い知らせたい。穢れを知らないこのあどけなさを汚したいと、そう思った。
「かわいそうな人ですね」
「えっ?」
神経の昂ぶりを覚えつつ、次にひなたが発する言葉を待っていた高取は、耳を疑った。
「……あなたに、そのように言われる覚えはありませんが?」
可哀想──そんな陳腐な言葉を浴びせたひなたに、高取は動揺と反発を覚える。それを知られたくない一心で、虚勢を張る。
「あなたは、ただ、全体を見ているだけ……大きなまとまりを見て、わかったような気になってる」
「僕の研究はダエモニアのメカニズムを知ることですから」
だから、文句を言われる筋合いはない。
高取はそう言おうとしたが、あまり言葉を重ねるのは得策ではない気がして、口をつぐむ。ひなたは話を続けた。
「私達は違います。私は……闘う時は、ダエモニアと──一人の人と向き合っていると思っています。ダエモニアになった人が何を考えて、どうしてダエモニアになったのかはわからないけれど……その人が人間であったことだけは、忘れたくないと思っています。でもあなたは、人間を見ようともしない」
そうだ、煩わしいからな──。
高取はひなた達には聞こえないぐらいの声で独りごちた。
「あなたの研究は、子供が、できあがったケーキをただ眺めて、その味を知らない癖に知ったかぶって人に話すのと同じです」
「知る必要がないからだ」
「本当にそうなんですか? 何かを研究するのに、知らなくていいことなんてあるんですか? あなたはただ……怖いだけでしょう?人間の心が。人と向き合うことが」
「!」
違う、煩わしいだけだ。
咄嗟にそう言葉にしようとしたが、何故か声にはならなかった。胸の奥で、ひなたが言った「怖い」という単語が栓になり言葉の流れを止めてしまう。
どう言い返すのがいいのかわからない。どの言葉を選べば、この生意気な女を一撃で傷つけることができるのか────。頭を巡らせるが、的確な言葉が何も思いつかなかった。
すると、ハっとした表情のひなたが言った。
「ご、ごめんなさい、私……言い過ぎました」
少しの沈黙の後、ひなたは、申し訳なさそうな表情で高取に詫びた。
「……別に、気にしてません」
「私、勝手に期待して……ダエモニアの研究をしてる人は、未来のことを考えてくれている、すごい人なんだって……」
「…………」
「困ってる人達を、助けられる人なのかなって……」
「どうでもいい!」
思わず高取は怒鳴った。そしてすぐに後悔した。こんな風に、人に対して感情を露わにしたのは、初めてだった。そんな自分に戸惑った。
「ちょっと! そんな言い方はないんじゃないの? ひなた、謝ってるじゃん」
強い口調でアメリーは責めたが、高取はすぐに遮るように口を開く。
「書き終えたなら、出て行ってください」
努めて平静を装いながら、ひなたとアメリーにそう伝えるのが精一杯だった。
「失礼……しました……」
先ほどとは打って変わった小さい声で、ひなたは挨拶した。ひなたとアメリーは、研究室から出て行った。
高取は、イスに深く腰掛けると、自分でも驚くほどの深い息をついた。
彼女達に、僕の研究がわかるはずがない。ダエモニアが遺伝子をどのように伝え、どのように生命を残していくのか──その神秘の過程においては、人間の心など必要ない。そんなものがあるから、研究がぶれる。
人と向き合うのが怖い──?
違う、怖くなんかない。煩わしいだけだ。
高取は再び大きく深呼吸すると、再び机に向かい始めた。
* *
宿舎に戻ってきたひなたは、大きくため息をつく。食堂でいつものように、ひなたの作った料理をアメリーと食べていた。春らしいタケノコご飯で、卒業してから何度作ったかわからない、ひなたの得意料理だ。
「は~、相変わらずおいし~! 日本の春の味覚は素晴らしいよね~!」
ご飯を飲み込み、春キャベツとしらすの味噌汁を飲んた後、アメリーは、ほぉ、と息をついて笑顔になった。だが、ひなたの暗い表情を見ると、つん、とひなたのおでこを人差し指でつついた。
「まだ気にしてるの?」
「うーん、気にしてるっていうか……」
「あんな研究バカのことなんて。何にもわかってないのに、わかったようなフリしたいだけの、器の小さいヤツなんだよ」
「それはちょっと言い過ぎじゃない、アメリー」
「えっ、肩持つの? なんで~?」
アメリーが不満そうに口を尖らせる。
「なんで……? なんでだろう?」
ひなたも、咄嗟に出た自分の言葉に首を捻る。あんなダエモニアを人として見ないような、冷たい人の肩を持つことはないのに──。
「でも、何か淋しそうなんだよね。高取さん」
ひなたは両手で頬杖をつくと小さく言った。
「はぁ? どこが?」
「本当は人と関わりたいんじゃないのかなぁって思って」
「あいつが? ないない」
アメリーは半分呆れて、半分は笑ってひなたに手を振るジェスチャーをする。
「人と関わりたいなら、もっと話しかけたり、気を遣ったりするでしょ?」
「怖くて、そういうのが苦手なんじゃないかと思って……」
「だとしても、あたし達が同情してやることなんてないじゃない~」
「それはそうなんだけど……」
ひなたが考えていることは、高取にしてみればただのお節介にすぎない。きっと本人に伝えたら、また気分を害すだろうと思う。
この感じはなんだろう? まるで高取は、雪原、吹雪の中で、鮮血を流し、傷を負っているのにこちらに牙を向ける白い狼──そんな風に、ひなたには思えてしまうのだ。
誰かに助けを求めている、求めたいのに、さらに自分が傷つけられることを畏れて、誰も近づけることができない。
そんな高取を見ていると、なんだか、放っておけない。
「ひなた、あんたまさか」
ハっと何かに気がついたように、アメリーがひなたを見た。
「好きなの? あの研究偏執狂のこと!」
「えぇぇぇっ!」
飛躍したアメリーの言葉に、今度はひなたが驚く。今の会話から、どこをどう解釈すれば、そういう話になるのだろうか?
「な、なんで? 考えたこともなかったよ」
「だってあれでしょ、母性本能くすぐられるってやつなんじゃないの?」
「え、えっと、どうかな……? そうかな……?」
意識した事もなかった事を言われ、ひなたはひどく戸惑った。
「まあ、意外とイケメンだしね。性格は変わることもあるかもしれないし」
「そうかな……? え、あ、でも、別にそういうわけじゃないっていうか」
「そっか~、ひなたに先越されるのか~。いいなぁ、あたしも好きな人、欲しい~!」
「だ、だから……自分でもよくわかんないよ」
ひなたとアメリーの年齢なら、もうとっくに異性と恋に落ちていてもいいのだが、彼女たちの置かれた特殊な環境が、それを難しくしていた。セフィロ・フィオーレは基本、女性しかいない部隊で、男性との接点も免疫もほとんどない。もちろん、これまでも男性の存在を意識しなかったわけではないが、ひなた達も『異性と向き合う』機会は少なかったのである。
だから、アメリーが言うような恋なのかどうかという疑問は、ひなたにはすぐ自覚し、答えることができなかった。高取のことが気になって放っておけない。それが、率直なひなたの気持ちだった。
「よし、わかった。協力しよう」
「協力って……何を?」
「高取のことだよ。友達としては、あんな面倒くさい男、やめておいた方がいいよって思うけど……でも、好きになっちゃったんなら仕方ないよね~」
「えっ、で、でも、まだ好きかどうかは……」
「だから、それを含めて確かめてみようよ。好きじゃないなら、それはそれでいいわけだし。『恋人』の使い手の、本領発揮だよ~」
「アメリー、面白がってるでしょ……?」
ふふふふふ、と企むように微笑むアメリーに、ひなたは少し口を尖らせた。
でも、と、ひなたは思う。
高取のことを好きかどうかはともかく、気になるし放っておけない。それが恋と呼べるのかどうかわからないけれど、もう少し気楽に話せるようになりたい、とは思う。直系のことやダエモニアのことなど、いろいろな話を聞けるチャンスではある。研究者から生の声を聞くことは、自分が任務を行う上で、何かの助けになるかもしれない。
ひなたは、静かに残りのタケノコご飯を口に運んだ。
* *
猫目の久美子とツインテールのサチがエティアとアリエルに呼ばれたのは、それから二日後のことだった。中庭には、春の花である白木蓮が、少しずつ咲き始めていた。
「お呼びしたのは他でもありません」
少し瞳を伏せ、声には少し遠慮が交じりながらも、エティアが口を開く。
「お二人に……任務を遂行してもらうことになりました」
その言葉に、久美子もサチも、顔が引き締まった。ここで言う任務とは、もちろん、ダエモニアを殲滅する、ということだ。
二人が占いの学校を卒業してから八年、『デュプリケート・カード』により、アストラルクスに入ることはできたが、ダエモニアに遭遇する前に、現実世界に戻ってきてしまっていた。それが先日、二人はやっと、ダエモニアを目視することができたのである。
その事実を確認した、セフィロ・フィオーレの上方組織・レグザリオは、エティアとアリエルに早急に二人を任務にあたらせるよう命じたのだ。
「あまり……言いたくはないのですが」
と、エティアは二人に前置きをする。
「あなた達は、正規のタロット使いとは違います。直系のタロット使い以上に危険が伴いますが……それでも行きますか?」
「…………」
「任務を断ることもできます。私もアリエルも……強要はしません」
「行かせてください!」
久美子とサチは、声を揃えるように言った。
「私達が今まで訓練してきたのは、この日のためです!」
「ここで出動しなかったら、何のために組織に残ったのかわかりません」
サチが決意を持って話す言葉に、久美子が続けた。
「それに、もし、私達が闘うことで、少しでもひなたとアメリーが楽になるのなら……同じチームの一員として、私達も闘います!」
「あの子達がどんな想いでダエモニアと向き合ってるのか、友達として、わかってるつもりです。少しでも、二人の役に立ちたいんです」
そう言い切った久美子とサチの強い決意は揺るぎようもなかった。
その表情は頼もしくもあり、また、エティアの目には儚くも映る。
送り出さなくていいのなら、このまま止めてあげたい。と同時に、もし、一緒に闘ってくれるのなら、これほど心強いことはない──。
その相反した気持ちを、これから何度味わうことになるのだろう?
「よろしく頼む」
エティアが口を開くより先に、アリエルが二人に声をかけた。
「もし、『デュプリケート・カード』によりダエモニアを殲滅することができれば、これは組織にとって大きな前進となる。お前達には存分に、期待しているぞ」
「はいっ!」
明朗な声で返事をすると、久美子とサチは書斎を出て行った。
「アリエル……ごめんなさい」
「謝ることはない。前にも言っただろう? 私とお前では、役割が違うのだと」
アリエルの言葉に、エティアは小さく息をつく。いつまでも甘えていてはいけないのに、肝心なところで、自分の弱さが顔を出す。
「これで、直系だけに頼らずに済む」
見ると、今までペットのように黙っていたラプラスとシュレディンガーが、静かに口を開いた。
「世代によっては、覚醒しないカードもあるからな。その間の穴埋め役として、デュプリケート・カードは充分な役割を果たしてくれるだろう」
「そうなれば、ダエモニア殲滅に人員も割けるようになるし、一石二鳥だニャ」
「……そうでしょうか……?」
エティアは、ラプラスとシュレディンガーをじっと見つめる。
「カードの適合能力が高いというだけの理由で、エレメンタル能力を持たない人を、私達の宿命に巻き込むことが、果たして許されることなのですか?」
「我々が強要したわけではない。彼女達には任務の内容を伝え、理解してもらった上で、参加しているのだろう?」
「それはそうですが……私達は、もっと根本的な問題を考える時期に来ているのではありませんか?」
「根本的な問題?」
「どういうことだニャ」
「……人に宿ったダエモニアではなく、ダエモニアそのものを殲滅することです。レグザリオは、これまでその研究を怠ってきたのではありませんか?」
「……フン、レグザリオに意見しようというのか。身の程知らずも甚だしいな」
ラプラスは大きく羽を広げると、エティアの目の前まで飛んでいく。本棚の上に留まると、エティアを見下ろした。
「今の発言は、聞かなかったことにしてやろう。デュプリケート・カードの使い手が確実に戦えるよう、取りはからえ。いいな」
「…………」
ラプラスの言葉に、エティアとアリエルは反発しながらも、俯くように肯定するしかなかった。
せめて、デュプリケート・カードの能力が増大すれば──。二人は、これからの研究者達の成果に、期待をする他はなかった。
* *
高取は、大きくため息をついた。
このところ、やっと春らしい陽気になり、白い研究室の壁は、明るい日差しでより白く感じられる。パイプイスに座り、窓の外を見ているひなたの髪も、より一層、太陽に映えているように見える。彼女が見る窓の外には、春の空特有の、霞んだような蒼が見える。
それにしても何故、今日は彼女一人なのか?
その事実が、再び、高取に憂鬱なため息をつかせる。先日の気まずい空気については、話題に出さなければ済むので気にしていなかったが、アメリーとひなた、高取という二対一の関係より、一対一の方が、関わる密度が増してしまうことに、嫌な気持ちを抱いていた。
「あ、あのっ!」
質問をするかどうか、迷っていたところで、ひなたの方が先に口を開いた。
「今日は……アメリーはお休みするって……。体調が悪いみたいです」
「……そうですか」
そう言うと、何故かひなたは、高取から顔を背けた。頬も少し上気しているように見える。やはり、この間のことを気にして怒っているのだろうか? だが、こちらは怒られる筋合いもない。
「では、この問診票に……」
「いえ、今日は書きたくありません」
「は?」
すると、まっすぐ、何か決意をしたような表情でひなたが高取を見た。逸らさないその瞳に、高取も思わず引きつけられる。
「できれば高取さんとお話ししたいんです。質問してくだされば、それに答えます」
「えっ……」
ひなたはまだ瞳を逸らさない。たまらず、高取の方が視線を外した。
何でそんなにじっと見るんだ? こちらを見過ぎだろう。
だが、すぐに逸らしたことを後悔した。何となく、勝負に負けたような気がしたのだ。
「……わかりました。いいでしょう」
「えっ! ホントですか?」
自分で言ったくせに、ひなたが驚いたような顔をしている。きっと僕のことをまだ、人と向き合うのが怖い人、と認識しているのだろう。そのまま、誤解されているのはなんだか癪だ。
「それでは質問します。今朝食べたものから、詳細に教えて下さい」
「朝は白米に、豆腐となめこの味噌汁、焼いた鮭を食べました。……高取さんは?」
「えっ?」
「朝ご飯。何を食べたんですか?」
「……今朝は食べてません」
「どうしてですか?」
「どうしてって……あなたには関係ないと思いますが?」
「関係ないですけど、知りたいんです」
そう言うとまた高取の瞳をじっと見つめる。
何なんだこれは──。
「どうして食べないんですか?」
ひなたは畳みかけるように高取に尋ねる。
「だから、関係ないって……」
「時間がなかったんですか? それとも、ご飯を作るのが苦手とか……?」
「……ご飯は、たいてい寮母さんが作るので……。朝は、ギリギリまで寝ていたいし……」
「そうですか」
ニコっと、ひなたが高取に笑った。何かに満足しているような、そんな表情だ。
高取は言いようのない居心地の悪さを感じる。『関係ない』といなしたところで、ひなたは食い下がることなく高取に質問してくる。一体、彼女は何のために、そんなことをするのだろうか?
「じゃあ、今度は私から高取さんに質問しますね。好きな食べ物はなんですか?」
「えっ?」
「知りたいんです」
ひなたはまたじっと、高取を見る。
高取は戸惑う。だが、今度は質問されたことや、じっと見つめられることではなく、好きなもの、についてだった。
これまで、研究以外の『好きなこと』について、考えたことがなかった。考える必要もなかったのだ。聞かれることもなかったし、話すこともなかった。
「寮でよく食べるのは……目玉焼き」
「目玉焼き、好きなんですか」
「いや、好きかどうかはわからないけど……」
ちらっとひなたを一瞥すると、嬉しそうにこちらを見ている。バカにしているのかとも思えるが、そういうわけではないらしい。一体、何を考えているのか?
元々、人の気持ちを推し量るのが苦手な高取は、ひなたの行動に戸惑うばかりだった。「高取さんは、どうしてこの仕事に就こうと思ったんですか?」
「どうして……?」
一番好きだと思っていた研究に対しても、この有様だ。自分が本当に好きだと思うことに対しても、理由をすぐに見つけることができない。「好きなことに理由はない」と言ってしまえばそれまでだ。だが、まっすぐひなたに見られると、何か、自分の心を見なくてはいけないような気持ちになってくる。
少し考えると、ある光景が高取の胸に浮かんできた。それは、幼い頃の記憶―。
「……多分、褒められたから」
「誰に?」
「父と母に。幼い頃、遺伝子の本を読んでたら、すごいねって……」
そう呟いた瞬間、高取の中に、猛烈に波のうねりのような、熱い塊が押し寄せ、危うく涙がこぼれそうになった。何故そんな気持ちになったのかはわからない。内心、軽んじていた養父母の思い出が、こんな風に自分の心に突き刺さるなど、思ってもみなかった。
「じゃあ、ご両親の期待に応えるため……?」
「いや……人のために何かしようと思ったことは、ない」
高取は、淡々とひなたに告げた。
その日から、こうして高取とひなたの、一対一の対話が始まった。高取が質問をし、ひなたが答えると、今度はひなたが高取について質問してくる。好きな色、好きな音楽、好きな動物、好きな本、好きな──。次から次へと聞かれるその質問は、高取に、自分の心の中を旅するような感覚を与えた。研究以外には──自分自身の内面さえも──本当に何も興味なかったのだと、高取は思い知った。
アメリーは研究室に来なかった。体調が悪い、とひなたは言っていたが、彼女が自分を嫌っていることはよくわかっている。直系の研究は、一人いれば充分、という算段なのだろう。
週に一度だけだった面会が、週三日になり、時間も二十分から一時間になり、時には二時間に及ぶこともあった。そんなやりとりが、二週間続いた。
まるでカウンセリングか何かのように、自分のことを聞かれるのは、高取にとっては戸惑いもあり、恥ずかしくもあり、だが、どこか──認めたくはなかったが──心地よさがあった。
* *
「それで、どう? うまくいってる?」
寮の部屋でマンゴープリンを食べながら、風呂上がりのアメリーが、ベッドで寛いでいるひなたに尋ねた。
「どうだろう……うまく、いってるのかな?でも、高取さんのこと、何となくわかってきたよ」
「ほら、言った通りだったでしょ? 二人で話した方が、仲良くなれるって」
「うん……」
「だからやっぱり、あたしはしばらく行かない方がいいと思うんだ~。キューピッドは、時には邪魔しないことも大切よね~」
アメリーは、納得したようにうんうんと頷いている。
「それでそれで、何がわかったの?」
「目玉焼きが好きなことと、研究が一番大切なことと……友達があまりいなくて、本人は否定するけど、すごく淋しがりやな事とか……」
「それ、あたしでもわかりそうなことだけど」
「えっ! ……じゃあやっぱり、高取さんはまだ心を開いてくれてるわけじゃないのかな……」
しゅん、とひなたは淋しそうな表情になる。
「でも、高取さんのこと、何だか放っておけないんだよね……やっぱり好きってことなのかな……?」
少し、考えるような顔でアメリーが言った。
「それってさ、実は同情なんじゃないの?」
「同情?」
「彼が可哀想だから、彼の心を開いてあげたいってさ、恋とはちょっと違うっていうか」
「違う……違うのかな?」
ひなたは自分の胸に手を当てて聞いてみる。
初めて気になった異性。
研究に一生懸命だけど、どこか淋しさを抱えている。それを──少しだけでも埋められればいいな、とひなたは思う。
どうしてそう思うのかはわからない。高取のことが可哀想だから、と言われればそうかもしれない。
でも、包んであげたいのだ。痛みに耐える、碧い目をした白い狼を。
恋って、どういうもの?
ウキウキして、その人に会うのが楽しみで、今日は何を話そうとか、色々考える──。
それなら、私は、もう恋をしているんじゃないだろうか?
研究棟を歩きながら、ひなたは思う。今日のリボンは、白いレースに替えた。高取が見たら何て言うだろうか? 気がつかず、何も言わない可能性の方が高いが、それでも、もし気づいてくれたら嬉しい。少しでも、かわいいと思ってくれたら嬉しい。本当に本当に少しだけでも、自分に興味を持ってくれたら──。
でもそれは難しいだろうと、ひなたは思う。
高取と自分の関係は、あくまでも研究者と被験者。あの高取が、女性に興味を持つとは思えない。でも、自分が想うだけで十分だ。一緒に話をして、お互いのことをもっとよく知って、少しでも仲良くなれるのなら。
高取の研究室に到着する。ひなたが時計を見ると、約束の十分前だ。早く来すぎたかもしれない。高取の時間を邪魔しては悪いと、いつもは五分前に着くようにしていた。
どこかで時間を潰そうと、踵を返す。すると突然、研究室のドアが開き呼び止められた。
「ひなた……さん?」
見ると、高取がこちらを覗いている。
「あっ……ご、ごめんなさい。ちょっと早く着いてしまって……」
「いえ、どうぞ」
高取はメガネを指で押さえる仕草をすると、ひなたを中へと促した。
足音が聞こえたからなのだろうか? それにしても、高取が自ら出迎えてくれるなんて、本当に珍しいことだ。
いつものように、ひなたはパイプイスに座った。高取はひなたに背を向け書類を整理している。机の上には、何故かマグカップに入れられたお茶が置いてある。今までで初めてのことだ。
「お茶……」
「寮母さんが葉をくれたので。よろしければ」
何か不都合なことでもあるのだろうか、早口で高取が言った。
「いただきます」
ひなたは、まだ熱いそのお茶を、ゆっくりと飲んだ。口の中に、中国茶の苦みと芳香が広がる。
「中国茶、淹れるの、うまいんですね」
高取はまだ、机で書類を整理していて、ひなたの方を見ようとしない。
「誰かに教えてもらったんですか?」
「いえ……本を読んで」
「そうですか」
ひなたは、もう一度お茶をすする。
嬉しかった。ほんの少しだけだが、心が通じたような気がした。
「高取さんは、お茶……好きなんですか?」
「まあ、嫌いじゃないです。多分」
「じゃあ、買いに行きませんか?」
「えっ?」
ひなたの提案に、高取は心底驚いたような顔をする。
「いえ、嫌ならいいんですけど……」
「嫌、ではない、です。多分」
高取は、ひなたの方を見る。メガネの下のその顔は、少し上気しているようにも見える。
「じゃあ、今度の日曜日、午後から余津浜に行きましょう」
ひなたはニッコリと、高取に笑いかけた。
* *
その日は暖かかった。春を迎え、余津浜の街は活気に満ちている。桜にはまだ早かったが、早くもふわふわとした浮かれた雰囲気が、人々の表情を明るくしていた。
そんな人々とは裏腹に、高取はひどく動揺していた。歩幅を合わせて歩く隣には、ひなたがいる。女の子とこうやって歩くことなんて、小学生の遠足以来かもしれない。
「今日は暖かいですね~」
ひなたの声のトーンが、いつもより高い気がする。高取の方はというと、さっきから手のひらの汗が止まらない。
何故、誘われた時に断らなかったのだろうか、と今さらながら後悔する。あの時は、誘って貰ったことが嬉しく、また、ひなたの笑顔が可愛く、つい行くと返事をしてしまったが、よくよく考えてみれば、こんなデートのようなシチュエーションに、高取自身、全く免疫がないことに気づいてしまったのである。
こういう時、みんなはどうしているのだろうか? 気の利いたことの一つでもできればいいのだろうが、そんなスキルはまったく持ち合わせていない。
とにかく一緒に歩けばいい。僕が浮かれてるだけで、彼女は何とも思っていないかもしれない。ただの買い物だと。
そう考えると、少し楽になった。
中国茶の店で、ひなたが勧める東方美人という銘柄の葉を買い、二人は歩き出した。
これでもう、用事は済んでしまった、と、高取は半ば残念な気持ちになる。
かっこ悪いな、と思った。
今時、思春期の中学生だって、今の自分よりもっとうまく立ち回るのではないだろうか。
研究しかしてこなかったことを、後悔したことは今まで一度もない。だが、こういう場面において、スマートに振る舞えない自分は、どこか、人間的に劣っているのではないかとさえ思えてくる。これまでに感じたことのない、強烈なコンプレックスだった。だからといって、世間一般の、言ってみれば健全で軽薄な男のように、女の尻を追いかける気持ちには全くなれない。だが、せめて、仲良くしたいと思う女の子──ひなたには、いいところを見せたいと、素直に思った。
そんな高取の悶々とした想いに、おそらく全く気づいていないひなたに誘われるままに、高取は中華街で飲茶を食べた。ご馳走するつもりだったが、トイレに行ってる間に、ひなたが先に支払いを済ませてしまった。高取は全部払うと主張したが、ひなたが受け取ろうとしなかったため、とりあえず強行に自分の分だけは払い、割り勘に持ち込んだ。
調味料が欲しい、というひなたに付き合い、雑貨店を回った。高取には、何がどんな味なのかよくわからなかったが、ひなたは様々な調味料を少量ずつ買っていく。ひなたが料理好きだというのは知っていたが、これほど色々詳しいとは思わなかった。本当に、料理が好きなのだろう。買い物はその人の嗜好を如実に表す。店を見て歩くが、高取には欲しい物がない。だからといって、つまらない訳ではなかった。ひなたのいろいろな面を見ることができるのは、楽しかった。
「高取さんは、何か見たいところって他にありますか?」
明るい表情で、ひなたはこちらを見る。その冬の日差しのような暖かさに、これまで抱いていたコンプレックスが、全て浄化されるような感覚を高取は味わい、救われる。
そうだ。この暖かさだ。ジリジリと照りつける夏の太陽ではなく、柔らかく、全てを包み込むような冬の太陽。それがひなただ。何かを押しつけるのではなく、全てを受け入れ、自分の中に取り込んでいく。研究以外を全て排除してきた自分には、到底真似できないことだった。
「もし、高取さんが行きたいところが無いなら……私、ちょっと見たい物があるんです」
思わずひなたに見とれ、ぼんやりしていた高取に、ひなたは優しく微笑みかけた。
二人がたどり着いたのは、余津浜の港の大桟橋呼ばれる場所だった。陽はもうだいぶ傾き、黄昏を迎えている。
「見たい物って……?」
と、ひなたは、高取より一歩前に出る。
「ここは、キングとクイーンと、ジャックが一度に見える場所なんです」
「ああ……」
研究所に来たときのガイドブックに、記載があったのを高取は思い出した。キングと呼ばれる官庁、クイーンと呼ばれる税関、ジャックと呼ばれる歴史博物館。西洋風に造られた三つの建築物は、余津浜の象徴だ。
「……この場所に立って、建物の間に沈んでいく夕日を見ると、願いが叶うって言われてるんです」
「へぇ……」
「私、お願いしたいことがあって……」
少し、はにかむようにひなたは高取を見る。そのまま、高取に背を向けて、建物の方に向き直った。
ひなたの小さな背が、斜陽を受け、まるで輝いているように見える。そのまぶしさに、高取は思わず目を細める。
「ダエモニアになる全ての人が、いつか救われますように」
ひなたは、静かに高取の方に振り返る。だがその表情は、徐々に暗くなる空と、逆光のせいで見えなくなっている。
「そして……高取さんの孤独や淋しさが、少しでも無くなりますように」
誰そ彼──。
昔の人は、黄昏時に相手の顔が見えず、「お前は誰か」と尋ねた。それが黄昏の語源──。
顔がよく見えないひなたを見つめながら、高取はそんなことを思い出した。
「…………」
「……えっ?」
ひなたの驚きと戸惑いの声が聞こえる。
気がつくと、自分でも何故そうしたのかわからないが、ひなたの腕を引き寄せ、抱きしめていた。
「……あの……どうしたん、ですか?」
ひなたの表情は見えない。
「わからない……」
ただ一言だけ、高取はひなたに答えた。
自分のことを気遣ってくれたことが、嬉しかったからのような気がする。いや、そんな利己的な理由ではなく、単純にひなたを愛しく思えたのは間違いない。でも、急にひなたがどこか、遠くに行ってしまいそうな恐れ。自分の傍から離れて欲しくない、その想いが、一番強いような気もする。
これがどういう感情なのかは、的確には答えることができない。ただ、こうすることが自然で、違和感を感じない。
遺伝子が惹かれている──。
ふと、そんな単語が、高取の頭をよぎった。
〔5話へ続く〕